香ばしくて、ほんのり苦いどんぐり=ひだみ料理
突然ですが、「ひだみ」という言葉を、聞いたことがありますか?
これは木曽地方で、「どんぐり」の意味。「ひだみ料理」といえば、ここではどんぐりを使った料理のことを指します。
どんぐりを食べる?縄文時代?? そんな発想をする方も多いかもしれません。いえいえ、地域では昔から、どんぐりは命をつなぐ貴重な食材のひとつ。そして今、現在もなお、どんぐりを食べる食文化が受け継がれているのです。しかも、とびきりおいしい食べ方で──。
地域でいちばんのひだみ料理の作り手として知られる、瀬戸美恵子さんに会うため、自宅で再開されたという創作会席の店「庵 瀬戸」のもとを訪ねたのは、冬のある日のこと。この日は郷土料理のおすすめのコース料理をお願いしました。
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広い畳敷きの一室、テーブルにずらりと並んだ料理は美しくて、おいしそうで、つい目移りしてしまうほど。瀬戸さん、今日はどんなお料理なのでしょう。
「私の料理は、その日手に入るものでつくる思いつきばかり。大したことないのよ」
と、マスク姿で登場した瀬戸美恵子さん。謙遜されていますが、聞くと使われている食材から、すでに都会の料亭では希少な高級品とされるようなものばかり。お味ももちろん、滋味深い一級のおいしさです。
なますに使われている「イワタケ」は、1年間1ミリしか育たないと言われている希少な天然きのこ。「天ぷらにしたもみじの葉は、紅葉が綺麗な時期に塩漬けにしておいたものです」
まさに、郷土料理の宝石箱。料理を通じて、王滝の山野とつながることができそうな、なんとも贅沢な料理の数々です。王滝の自然の豊かさと、なによりそれを活かす瀬戸さんの知恵の奥深さに驚かされます。
もちろん、そのなかには今日のおめあて、「ひだみ料理」も。
「お鍋の油揚げのなかに、どんぐり粉入りのお餅を入れましたよ」
そう言われ、小鉢に油揚げをとって中を開けてみると、やわらかな茶色いお餅が登場。口に運ぶとなやわらかで、しっかりおだしがからまっておいしい!
予想していた苦味はほとんど感じず、深いうまみとともになめらかなおもちがつるんと喉を通っていきます。
そして、デザートにもふんだんに「ひだみ」が。
「おもちにもこのパイにも使われているのが、私が開発した方法でアク抜きをした『どんぐり粉』です」
そう、瀬戸さんはひだみを使って料理をつくるだけでなく、手間のかかるアク抜き方法も、現代に即して開発したのです。「重曹を使って、何度も茹でこぼしてアクを抜くんです」というその製法のおかげで、現在は瀬戸さんのほかにもひだみでお菓子などをつくる仲間が静かに広がっています。
いただいた、瀬戸さんお手製のパイは、こしあんのような食感のどんぐりあんが詰まったもの。じっくりと噛み締めると、鼻から香ばしさがぬけ、口の中にはほのかな苦味が広がります。これもまた、おいしい!
ますます、興味津々。ゆっくりとお料理をいただいたら、瀬戸さんにどんぐり料理と王滝の食文化について、お話をお聞きすることにします。
この環境が育んできた知恵
「せっかくだから、食後はどんぐりコーヒーを淹れましょうか」
じっくり焙煎したどんぐりの粉で淹れる「どんぐりこおひい」(これもやさしいコーヒーといったおいしさ!)をいただきながら、瀬戸さんにお話をうかがいます。
―子どものころから、どんぐり料理を食べていたのですか?
「そう、うちには一斗缶のなかに“ひだみ”の粉が入れてあってね。それを器にとってお湯と蜂蜜を入れて練ったものを、子どものころによく食べたものです。お餅に入れるのも、今日みたいに、とってもなめらかになっておいしくて。母がつくってくれたひだみ料理が、私の原点なんですよ」
「もともとこの地域は厳しい環境だから、とくに冬の食べ物が少なかった。そんななか、“ひだみ”は『囲炉裏の上なら100年虫がつかない』と言われていて、各家にはたっぷりとひだみを保管して、飢饉に備えたそうです。どんぐりの木の種類は“ミズナラ”。ほんとうは、“コナラ”のほうがおいしいというけれど、皮をむくのが簡単なミズナラが使われていることが多いわね。今日も、使っているのはミズナラです」
あるものを生かして、いのちをつなぐ。王滝を含む木曽エリアに伝わる、塩を使わない漬物「すんき」しかり、山郷の知恵はこの環境のなかで育まれてきたのでしょう。
「私がつくる料理も、『これ』と固定したレシピはないの。ポテトサラダだって、じゃがいもがなければ里芋にしてみたり、長芋に変えたりね。そういう『あるものでおいしく』という発想と、なんでも旬のうちに保存しておくひと手間をかけておくことは、王滝らしい発想なのかもしれません」
「好き」を見つけて深めることが、王滝の暮らしの喜び
最後に瀬戸さんに、王滝でのハードモードライフの愛すべき点についてお聞きしました。
「王滝の環境は厳しいとはいえ、工夫すればこんなにも食べるものが豊富だし、自然も美しいのがいいですよね。若いころは、登山に夢中だったから、御嶽山も大好きでもう何十回と登りました。
今は山野草が好きで、家では100種類ぐらい育てているし、手芸で手を動かすことも好き。
そうやって、夢中になって暮らしていると、あっという間に毎日が過ぎていきます。
たとえば山野草って、一つとして同じものがないけれど、どれにも違った魅力があるの。『瀬戸さんはいいところ探すのが上手よね』って、なかばあきれたように言われることもあるけれど、なんでも同じ。好きなことを見つけて、楽しめたらそれが一番の幸せでしょう?」
そしてもちろん、“ひだみ”の存在も、瀬戸さんを突き動かす大きな原動力。
「いま、私たちが“ひだみ”の文化を途絶えさせてしまえば、きっと後から復活させることは本当に大変になってしまうから、これからも伝統を大切に、新しいひだみ料理の世界も探求したい。そうすることでこうしてまた、楽しい出会いもあるでしょう。ひだみにはまだまだ、可能性があると思っているんです」
身近なものこそ見えなくなりがちな日々のなかで、足元にたくさんの「好き」を見つけ、深めていく瀬戸さんの暮らし。「庵 瀬戸」でいただく料理には、そんな毎日が育んだ喜びそのものが詰まっているのかもしれません。